第6回「仏法の因果論──通途の因果と大聖人の因果」

第6回は、2021年6月12日(土)夜9時~ zoomで開催(※毎月第2土曜日21時からになります)。
今回のテーマは、「仏法の因果論──通途の因果と大聖人の因果」です。
レポーターは、教学委員の波田地克利さんです。

高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん・形状端厳をそしれば醜陋の報いを得・人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる・持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず・正法の家をそしれば邪見の家に生ず・善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり(佐渡御書p.960)

(現代語訳) 高い山に登る者は必ず下るように、人を軽しめれば、かえって人に軽しめられる。容姿の端正な人を悪口すれば醜く生まれ、人の衣服や食べ物を奪えば餓鬼となる。戒を持つ尊貴な人を笑えば貧賎の家に生まれる。正法を謗れば邪見の家に生まれる。十善戒や五戒を持つ人を笑えば国土の民となって王難に遭うのである。これは因果の定まった法である。

これらの現世に受けている苦しみには、必ず原因がなければならない。そこで、一般に仏法で説かれる個々の因果の理を示されているところです。
高山に登る者は必ず下ってくるように、因を作れば必ずその果があるのです。
 「我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん」  人をばかにすれば、今度は自分が人からばかにされるようになるのです。
 「形状端厳をそしれば醜陋の報いを得」  「形状端厳」とは、顔かたちが端正でおごそかなことをいいます。ともあれ、人を謗れば、醜くなるという報いを受けるのです。
 「人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる」  人の物を盗めば必ず餓鬼となる。食べられなくなって苦しむ、貧しい生活に落ちるということです。
 「持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず」  キチンとした生き方をしている人をばかにして笑えば、貧賎の家に生まれる。
 「正法の家をそしれば邪見の家に生ず」  正法を持っている家の悪口を言えば、邪見の家、すなわち謗法の家に生まれて、ふしあわせになるのです。
 「善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ」  「善戒」とは、正法を持った人のことです。ですから、信心している我々を笑っても、何かの罪に問われたり、牢へ入ったりするというのです。また広く約せば、税金で苦しむとか、権力で様々に圧迫されていかねばならない生活になるともいえると思います。
 「是は常の因果の定れる法なり」  これは生命の因果の定まった法であるとの仰せです。

また、今回(第6回教学研究会)の服部さんの体験(https://youtu.be/PIcJRIj18Qw)には、仏法の因果論、宿命論と大聖人の仏法との違いという重大なテーマをはらんでいると感じました。
お母さんが不慮の事故で亡くなられた事に対して「罰だ謗法だ」などと言った支部婦人幹部は、服部さんのお母さん個人の業だと思っている訳です。
言っている本人とは関係のない、個人の特殊な業だという前提でものを言っていると思われますが、建設現場の事故というのは、現場で働く労働者個人の問題というよりも建設業界共通の問題であるなど、個人を超えた問題を抱えていることがよくあります。
それを自分とは関係のない問題として見ていることが根本的な間違いであり、宿命論というのは自己責任論であるので為政者にとっては都合が良いことでもあるので、自分にとっても変革する必要のある業、*共業(ぐうごう)と捉えることによって社会変革がなされていく原点となるのです。
「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」という小説「人間革命」の主題の通りです。

*罰にも総罰と別罰といって、個人で受ける罰と国や社会全体が受ける総罰があります。
一人一人が個人で抱える宿業を不共業(ふぐうごう)、それに対して、地域や社会、国や人類が抱えている宿業を共業(ぐうごう)といいます。
自分とは関係ないものとして見るのではなく、自信を含めた共通の宿業、共業と捉えて共通の業を担って転換していくことを東洋大学名誉教授で宗教社会学者の西山茂氏は担転共業(たんてんぐうごう)とよばれました。

池田先生は、著書「御書の世界」で通途の仏法と異なる法華経(日蓮仏法)の「罪障消滅」観について、以下のようにご指導されておられます。
「宿業の転換」を明確に示してこそ、人類は宿業、宿命から解放される。
「仏教で宿業を説くのは、「宿業の転換」を示すためです。反対に言えば、宿業の「転換」を明確に示しきらずに宿業論を振りかざすのは、仏教の邪道です。人間を宿業の鉄鎖で縛りつけるだけです。そして、日蓮仏法のもう一つの特徴は、宿業について、徹底した自己凝視をしているということです。自身の宿業を真っ正面から見つめ、それを自身の力で転換していこうとする。

宿業をありのままに見つめ、宿業に真っ向から切り込んでいくからこそ、仏界が現れるのです。自分を徹底的に掘り下げていくから、九識論で言えば九識心王真如の都が開発されていく。この道筋を離れて六根清浄もなければ、人間革命もありません。言い方を変えれば、人間が深まらない。 そして宿業を見つめるというのは、自分自身のことだけではありません。自分が解放されたならば、今度は、宿業で苦しんでいる人々を救っていかなければならない。最終的には、人類の宿業を見つめなければならない。それでこそ自行化他の成仏への軌道です。 自分も自身の宿命転換のために戦いながら、友の宿命転換のために尽力していく。それが学会活動です。これこそ究極の仏法の正道にほかならないのです。(「御書の世界」3巻 第十章 佐渡流罪〈下〉p.302)

また、服部さんの体験は、今回の講義で取り上げた昭和52年の池田会長による「観心本尊抄」講義に深く関係しています。
その池田先生の講義のベースになっているのが、戸田先生の昭和22年の「三世の因果」と題する講演等です。
池田先生は、観心本尊抄のすべてを講義したわけではありません。
戸田先生の2つの講演をベースに、観心本尊抄の前半のエッセンスである受持即観心の段を講義しただけといえます。 「問うて曰く、上の大難未だ其の会通を聞かず如何」から「私に会通を加へば本文を黷すが如し、爾りと雖も文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」を経て、「如我等無異無為」「今者已満足」「妙覚の釈尊は我等が血肉なり、因果の功徳は骨髄に非ずや」までです。
問題は、「上の大難」とは何か?です。
どんどん前へさかのぼっていける構成になっています。
結局、冒頭の「一念三千」までさかのぼるわけです。 観心本尊抄の正式名称は、「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」ですが、前半のテーマは、「観心(一念三千)」であり「本尊」です。
後半のテーマは、「「如来滅後五五百歳始」つまりこの観心の本尊をいつ、だれが始め弘めるのか? 結論が第4回で学んだ、「此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」となります。
先生の講義を読む前に、そうした本尊抄の構成を確認しておきたいと思います。

戸田先生と池田先生の講義に一貫しているのが、「帰依して南無妙法蓮華経と唱えたてまつることが、よりよき運命への転換の方法であります。
この方法によって、途中の因果がみな消えさって、久遠の凡夫が出現するのであります」との宿命転換の原理です。
この原理を最も詳しく解き明かしているのが、昭和52年の池田会長講義です。
その中でも、49ページから66ページがエッセンスです。
最も大切なのは、64ページの「端座唱題で胸中の久遠の凡夫が覚醒」の下りです。
法華経というのは、自分も他人も、今のあるがままで、最高に尊い仏の存在であるということです。
何かに到達したら尊くなるというのは、爾前権教です。
前回の観心本尊抄講義で学んだように、いまのあるがままで、すでに十分、持っている存在と捉えるのが法華経です。
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す・我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給うとある通りです。
津久井やまゆり園の殺人犯のような、世の中の役に立たない人間、生産性のない人間は必要ないという優勢思想の対極にあるのが、法華経です。
その具体的な実践の姿が、不軽菩薩であり、釈尊であり、日蓮大聖人であり、創価学会の三代会長です。


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