第38回教学研究会「池田家vs原田執行部の対立問題・第3弾」

第38回は、2024年2月3日(土)夜8時~ zoomで開催します(※毎月第1土曜日の20時からになります)。
今回の講義テーマは「池田家vs原田執行部の対立問題・第3弾『池田家が先生の逝去を公表したのは、博正氏と会長の会見の2時間前だった!!』です。

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前半講義Ⅰ:池田家vs原田執行部の対立問題・第3弾「池田家が先生の逝去を公表したのは、博正氏と会長の会見の2時間前だった!!」

このところ、はたちチャンネル視聴者の関心が高い、池田家vs原田執行部の対立問題の第3弾になります。原田会長の「只今、池田主任副会長から、突然の訃報を伺い」発言から、池田家は、先生逝去の事実をずっと隠し、18日午前の火葬で家族葬の一切が終わった後、原田学会執行部に伝えたものと思われます。それはなんと、博正氏と会長の会見の2時間前でした。


前半講義Ⅱ:「創価学会本部が、天魔・日顕に法論を挑み、負けていた!!——責任者の斉藤教学部長は仏罰で舌ガン死!(享年64歳)『教学要綱』の責任者は大丈夫か!?」

『創価学会教学要綱』を谷川、宮田、菅野、原田ジュニアら東大出の学会教学部関係者ですが、この主導したのは、東大出の教学部関係者は、現場の実践がないので、剣豪の修行とはほど遠い“つけ刃”教学になっています。
その先例というべきなのが、天魔・日顕に法論を挑んで敗れた斉藤克司教学部長(東大出)です。学会本部が日顕宗に法論で負けたんですよ!!罰が出ないわけがありません。その証拠に、斉藤教学部長は、64歳の若さで舌癌で亡くなりました。日顕宗の坊主から、「斉藤克司よ、謗三宝罪は重罪である。その舌根が糜爛(びらん)せぬよう気をつけよと告げておく」と言われた通り、舌がただれて死にました。「秘とはきびしきなり三千羅列なり」――生命の厳しい因果です。この現証をどう捉えるべきかが、当日のテーマです。翻って、 宗門はじめ日蓮系教団からフルボッコ確実の『教学要綱』を主導した東大出の教学部関係者たちに、同様の現罰が下るのは必定です! 前回も少し触れましたが、今度は、資料や証拠を示して、日精問題をめぐる宗創の論争の顛末について述べたいと思います。

後半講義:「日蓮大聖人の成仏観——即身成仏と霊山往詣——について」

日蓮大聖人の成仏観に、「即身成仏(一生成仏)」と「霊山往詣(おうけい)」があることは、よく知られた事実すが、学会教学では、「霊山往詣」は成仏観として取り上げることはほとんどありませんね。池田先生の「霊鷲山」についてのスピーチや研究者のいくつかの論文を紹介しながら、霊山往詣の基本を学びたいと思います。
もう一つの「即身成仏(一生成仏)」は、禅宗や念仏宗の仏身観と大聖人の仏身観を対比することで、明瞭になるのではないかと思います。
仏法には、禅宗や天台止観行のように、「法先人後」の仏身観に立って、本尊を立てず、自力作善で、理を悟って成仏しようとする「悟り」の道があります。これは、どうしても歴劫修行になり、現実には成仏はできません。『教学要綱』を書いた谷川、宮田、菅野等の東大出の連中は、みなこの自力作善の禅宗タイプですね。「禅宗は天魔」ですから、他化自在天に取りつかれ、狂ってしまっています。

仏法には、もう一つ、念仏宗のように、「人先法後」(キリスト教の神もなど同類)と言ってもいいような阿弥陀如来という根本仏・本尊を立て、その本願の力にすがって往生(成仏)しようという「救い」の道があります。他力本願、絶対他力の信仰です。創価学会では、“おすがり信仰”として嫌われがちですが、御書に、 「かつへて(飢えて)食をねがひ(願い)・渇して(かつして)水をしたう(慕う)がごとく・恋いて(こいて)人を見たきがごとく・ 病(やまい)に くすりを たのむがごとく、みめかたち(見目 形)よき人・べに しろいものを つくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ、さなくしては後悔あるべし」(上野殿御返事<刀杖難事>、1573頁、弘安2年4月)というお手紙もあるように、いざという時、ピンチの時など、ひたすら御本尊様にすがることは否定されていませんし、特に、入信浅い人などには、このひたぶるな祈りで初信の功徳をいただいた体験をもっている人は少なくありません。
禅宗タイプの自力作善の人も、念仏宗タイプの他力本願の人も、それなりに功徳の体験を得られるところが、日蓮仏法、創価学会の信仰の懐の深さ、許容量の大きさだと思いますが、日蓮仏法の信仰の醍醐味は、別のところにあると思います。

 第三の道ともいうべき、「人法一箇」の仏身観に立ち、仏と凡夫の境智冥合、入我我入、感応道交による即身成仏、一生成仏の道があります。
池田先生の師弟不二の道は、まさにこの第3の「即身成仏」タイプです。
前者は、第7回教学研究会で、小説・人間革命第10巻等を通して学んだ池田先生の師弟論(師弟の道と師弟不二の道)の復習ともなります。
創価仏法の原点は戸田先生の悟達(戦前の獄中の悟達、戦後の路上の悟達)ですが、池田先生には、戸田先生のような悟達はなかったのではないかと言う人がいますが、間違っています。池田先生の悟達は、「師弟不二」です。師弟不二は御書にはなく、日寛上人の文段を依拠とした、ある意味、創価学会独自の用語です。

池田先生は、戸田先生を仏と信じ、戸田先生に帰命しようとされました。このことは小説・人間革命第3巻「結実」に出てきます。戸田先生のため身命を投げうって広布の活路を開く中で、戸田先生より先に死のう、30歳まで生きられるかどうかと言われた池田先生は、30歳で亡くなるところか、更賜寿命し、想像もしていなかったものすごい境涯になることができたという宗教的体験を持っています。
小説・人間革命第10巻で、池田先生は、「師弟不二とは、(師匠と弟子の)一念における合一である」と結論しています。これは、実は、即身成仏の唯一の方途である「入我我入」「境智冥合」「感応道交」という原理を現代的に言い換えたものと言えます。われわれの身近な言葉でいえば、池田先生と呼吸が合うとか、意気投合するとか表現してもいいと思います。動画がアップされている鈴木惠子さんの体験などでも、池田先生と呼吸が合った時に、思いもかけない不思議な出来事や力が出てきた体験が語られています。
われわれが受持している御本尊様は、生身の日蓮大聖人であり、この漫荼羅を信じて南無妙法蓮華経と唱える時、大聖人と境智冥合、入我我入して、わが身即蓮祖上人と現れるなりと日寛上人は仰せです。

われわれの生命にあらゆる大難を勝ち超えた日蓮大聖人の生命、そして池田先生と同じ生命が湧現してくるわけです。この御本尊との境智冥合、池田先生との感応道交こそが、末法の衆生が即身成仏、一生成仏する唯一の方途なのです。ところが、宮田氏は、「日蓮に境智冥合論はあったか」と疑問を呈し、例の大崎ルールを乱暴に振り回し、「境智冥合」という智解は必要ないという立場だと私は思っていると言い切っています。

そもそも、本尊という用語は天台智顗にはなく、天台は本尊を立てません。本尊は密教の用語で、仏の三密(身口意の三業)と凡夫のそれを合一させることによって入我我入(境智冥合)して即身成仏できるという原理です。大聖人は天台密教の流れを汲み、本尊を立てる仏法です。宮田氏は、日蓮仏法を本尊を立てない己心主義の禅宗ぽいものと理解したいみたいですね。とんでもない邪義です。

毎回、充実した内容になっています。
是非とも新しいご友人、お知り合いの方々を伴って、ご参加くださいますよう、お願いいたします。


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