開催日時:2026年5月9日(土)午後8時からzoom会議室にて (※毎月 第1土曜日 午後8時)
※5月はGWと重なるため第2土曜日に開催します。
毎回、充実した内容になっています。
是非とも新しいご友人、お知り合いの方々を伴って、ご参加くださいますよう、お願いいたします。
・参加申込方法
①教学研究会のグループLINEのメンバーは、当日のzoom会議室の入室情報や資料等は、グループLINEで、お知らせしますので、改めての参加申込は不要です。
②初参加の方は、お手数ですが、当研究会のホームページの参加申し込みフォームから、お申し込みください。
参加申し込み – 教学研究会
zoom会議室の入室情報や資料等を受け取るために、メールアドレスの記入が必須です。
毎回、冒頭に初参加メンバーによる簡単な自己紹介をお願いしています。よろしくお願いします。また、参加後にグループLINEにご招待しますので、ご参加をお願いします。
③なお、初参加の方やハンドルネームに変更がある方は、今回は○○○で入室します等、事前にメールやLINEでお知らせくださるよう、お願いいたします。
【研究会の内容】
<開催の約2週間前に掲載します>
|
・式次第及び内容等
レポーター:神奈川の女性部メンバーと波田地の2本立てです。
司会: 大阪の壮年部メンバーです。
・当日の流れ:
①司会の第一声および自己紹介
②初参加メンバーの簡単な自己紹介
➂神奈川の女性部メンバーによる体験発表(第3回)
「とあるミレニアム世代の体験談・後編」
④七ツ星さんによる「スラップ訴訟」報告
※動きがなければ割愛します。
⑤音声・映像視聴コーナー
※紹介すべき音声・映像等が見つからなければ割愛します。
──休憩──
⑥前半講義:高市政権は「空想のナショナリズム」!
憲法は、国家権力の暴走に歯止めをかけるもの!!
自民党改憲草案を破折する!!!
by波田地
──休憩──
➆後半講義:『大御本尊とは何か』を考える・第2弾――
by波田地
……………………………
【解説】
⑥前半講義:高市政権は「空想のナショナリズム」!
憲法は、国家権力の暴走に歯止めをかけるもの!!
自民党改憲草案を破折する!!!
歴史人口学や家族構造分析に基づき、ソ連崩壊やトランプ当選など数々の地政学的転換を予言した「フランス最大の知性」と称される知識人・エマニュエル・トッド氏が、日本の高市早苗首相を「空想のナショナリズム」「ナショナリズム・ゼロ」と評した。
「(昨年10月)私が日本にいたときに、ちょうど日本で新しく女性の首相が就任した。その新首相は、あちこちでとても右寄り、きわだってナショナリストだと言われていた。で、日本は急激にナショナリズムに傾斜しているのか、 という問いが立てられることになった。私は帰国してすぐ、この日本の現象を新しい概念で考えてみた。『空想のナショナリズム』という概念だ。つまり幻ということだ」と。
トッド氏のナショナリズム観は、次の言葉に端的に表れている。
「本当のナショナリズムは、決定的に破滅的な戦争も引き起こす。第一次、第二次大戦の背景にあったのは、そのナショナリズムだ。しかし、戦争というネガティブな集団行動をもたらすと同時に、ポジティブな集団行動を促すのもまたこのナショナリズムなのだ。その場合は、社会的な連帯感を醸成し、経済的な発展など社会にとって有益なことのために人々が協力し合うことを可能にする」。
以下、トッド氏と20年来の知己の元朝日新聞記者・大野博人氏とのナショナリズムをめぐる対談の内容を要約しておく。
歴史的に見ると、ナショナリズムは、宗教的信仰の最初の崩壊のときに登場している。つまり宗教がアクティブからゾンビに移るときだ。ナショナリズムとは、宗教的な信仰に取って代わるものなのだと思う。いわば新しいジャンルの宗教、ただし超越的存在抜きの形をしている。だから、ナショナリズムとは実際にはゾンビ段階の宗教なのだ。
ゾンビ段階のナショナリズムはとても強く、社会をまとめあげる力を持っていた。そんなナショナリズムは1914年から1918年の第一次世界大戦、その後の第二次世界大戦も引き起こすことになる。
このナショナリズムは、日本では明治維新をもたらしたのではないか。実際、あの時代の反仏教的な宗教危機のなかで日本のナショナリズムは登場している。日本のナショナリズムも宗教のゾンビなのではないか。
それがあって日本は、経済的な拡張路線を進み、西洋に追いつき、帝国を築き、中国を征服しようとした。結局、それは真珠湾に行き着いた。ナショナリズムは非常に拡張志向で、敗戦という破滅的な結果を招いた。
とはいえ、そのナショナリズムが生きていたとき、それは日本の人々という集団を総動員する手段であった。つまり、招いた結果はひどいものだったが、一つの力ではあった。
●「空想のナショナリズム」「ナショナリズム・ゼロ」
今、ナショナリズムといっても、フランスであれ、日本であれ、私はそこにあるのは別のものだと思う。本当のナショナリズムは本来国民を統合するはずのものだ。日本のナショナリスト、愛国者を自任する多くの人たちが沖縄の声を聞こうとしない。同胞からの「助けてくれ」という叫びを無視する姿勢をナショナリズムと呼ぶのは難しい。
もし、ナショナリズムが国民の共同体を統合しまとめるものとして機能せず、むしろ分断するだけ
なら、疑似ナショナリズムとも呼べるだろう。疑似ナショナリズムでも空想のナショナリズムでも反ナショナリズムでもいい。呼び方はいくらでも考えられる。
反日というのは、中国におけるナショナリズムの理屈にかなっているように見える。というのも、日本は中国を侵略し、中国解放の戦いは日本に対して行われたからだ。しかし、今日、日本のナショナリズムがその対称形のように反中国に向かい、たとえば最近見られるように、中国と台湾を対立させようとするならば、それはまったくばかげたことだと思う。
なぜなら、日本のまっとうなナショナリズムの根本的な課題は「米国に対して独立すること」であるはずだからだ。日本を打ち負かし、日本を支配している勝者は米国だ。だから、本当のナショナリスト、愛国者、主権論者が望むべきは、米国からの独立を得ることでしかありえない。
つまり、本当の日本のナショナリストであれば、沖縄の米軍基地の閉鎖を求めるはずだ。しかし、ナショナリスト的とされる政策は、想像上の敵対国、中国に向かっている。それは日本を負かした勝者の米国に仕えるナショナリズムだ。なぜなら米国は日本を中国と対立させようとしているのだから。
そう考えれば、これは「空想のナショナリズム」というだけでは少々舌足らずかもしれない。というのも、再軍備などを語るから国益を目指しているかのようにいうナショナリズムは、実際のところ国益に反する動きをしている。 1945年の勝者に仕え続けるのだから。 たぶん、これをさっきの3段階にわけるなら「ナショナリズム・ゼロ」と言えるかもしれない
●自分の国を愛してはいないエリート、
ヨーロッパは、もはや自分の国を愛してはいないエリートたちの登場で、宗教ゼロ、ナショナリズム・ゼロの状態にある
いま、ヨーロッパで進んでいるのが、社会的統合の崩壊と上層階級から下層階級までの人々の間の連帯の喪失だ。ナショナリズムというのは、大衆とエリートを構造的に結びつける紐帯だったのだから。
フランスのエリートたちには社会からの離脱、分離といった動きがある。エリートは、自分たちは大衆よりも本質的に優れた資質が備わっていると考える。英語を話すというので、自分たちは優れていると思っている。かなり下手くそな英語だが、そこは気にしないようだ。で、自国の大衆よりも、自分たちは英国やドイツ、スウェーデン、米国のエリートたちに近いと思っている。
日本の場合も、エリートと大衆の関係は変容しつつあるのではないだろうか。エリートたちは労働者たちから離れ出しているかもしれない。かつては、一流の大学を卒業した若者たちの就職先としてかつては、中央官庁の官僚志向が強かった。日本の高級官僚たちは、 まず自分は日本人だという感覚を労働者たちと共有していた。 日本の省庁の人たちが、 自国の大衆よりも米国や欧州のエリートを身近に感じることはなかったと思う。この国民という理念の中には、 階層が違う人々もその社会の中でつながっているという理念も含まれていた。
しかし、今はたとえば米国が拠点のグローバル化した金融機関や大企業の方が、就職先として人気が高い。こうした若者たちはもはや国民の共同体のために働こうとしているわけではない。自分の活動のフィールドとして国民の共同体よりグローバル市場を選んでいるように見える。 日本のエリートも次第に国民の共同体からは遠ざかりつつあるようだ。
エリート主義が出てきて、エリートが大衆と離れようとする。その反動で、人々がエリートへの不信を募らせ、ポピュリズムに傾斜する。だから、 日本でも参政党という新しい政党が登場してきたのだろう。 これは日本のポピュリズムの始まりだ。つまり機械が回り出したのだ。しかし、日本はこの点でフランスから30年遅れている。
日本の読者に警告しておきたい。フランスでは、こうした姿勢で突き進んだために経済は破滅的な状況に立ち至った。本当に警告しておきたい。私たちの失敗をまねてはいけない。日本のエリートたちは自分たちの国民に忠実であり続けるべきだ。 米国の金融機関ではなく、日本の産業の発展に貢献し続けるべきだ。本当に、私たちの失敗を繰り返してはいけない。
●「移民」問題
国民という理念、ナショナリズムは移民に対して敵対的な感情をもたらし、促し、定着させてしまうことにもなる。日本の場合、今は人口減少を解決するために移民を必要としているにもかかわらず、だ。そうすると、これはあまりよくない結果を生む。
一つの国、みんなで社会の課題に効果的に取り組める国民集団として同質性の高い国を築き、維持しようとするなら、移民やその子どもたちを統合しなければならない。ほかに選択肢はない。だから、フランスの国民連合の掲げるナショナリズムは「空想のナショナリズム」あるいは「反ナショナリズム」だ。あの政党名に「連合」と入っているのは冗談みたいだ。本当は「国民分断」という名前にするべきだろう。
ただ日本の場合、 移民や難民など外国人の受け入れ関して、 フランスなどと大きく異なる点がある。たとえば参政党など、受け入れにとても警戒的な政党が支持を集める傾向があるが、日本にはまだそんなにたくさんの移民はいない。外国人への警戒心は、実際の移民などより、まだ来ていない想像上の外国人に向いているのではないか。
私が住んでいるのはパリだ。そこではアラブやサハラ以南から移ってきた人の割合が高い。だから、いわば人種的に同質性の高い日本のような国にいるととても不思議な気がする。私は、肌の色が違う人に囲まれて暮らすことにすっかり慣れている。その割合がある高さにまで達して、さまざまな反応を引き起こしている。
今、最も大きな支持率を持つ政党は反移民を掲げている。しかし、現実にはなにもできない。なぜならフランスでの移民人口はとても大きいので、ともに生きていくしかないのだ。その点、日本はまだずっと少ない。けれども、それは始まりだ。日本での外国人人口をずっと見てきたが、最近の入国者数はフランスとほぼ同じだ。日本の人口はフランスのほぼ倍だから、人口の割合でみると、 たしかにまだフランスほど大きくはない。 しかし日本の歴史で何かが始まったことになる。だから始まりはささやかでも、すごいことなのだ。だから不安を呼ぶわけだ。
日本の文化は階層化された文化で、それはかなり強固だと見られている。人々はとても礼儀正しい。だから日本にいるとある種の心地よさがある。人々がとても親切な国だ。それから、なんというか安心感がある。困っている人にみんな親切だと思う。完璧な日本社会には非常に心地よい面がある。しかし、移民がやってくると、その社会の完全性に疑問符がつく。無秩序状態が再び舞い戻ってくる恐れがあるからだ。
私は、日本には移民が必要だと思う。しかし、その状況に適応しなければならない日本人に
は同情を禁じえない。どうすれば 「移民」 を受け入れられるのか
●問題は移民より少子化問題
実際のところ、移民というのは特効薬ではない。解決策の要素の一つなのだ。先進諸国に当てはまることだが、 日本の根本的な問題は出生率の低さである。低いだけでなく、まだ下がり続けている。深刻な問題だ。
先進諸国の社会がこの重大な問題にあまり関心を示さないのは、驚くべきことだ。ここに本当の問題がある。これこそ「空想のナショナリズム」という概念が作用している例だ。人口を増やすこと、出生率を上げることを最優先に考えない人をナショナリストと呼べるだろうか。もし、どこかの政府がナショナリストを自称しながら、 人口の増加に興味を示さないとしたら、それこそ「空想のナショナリズム」の典型例になる。
深刻な人口滅を放置する国をナショナリストとは呼べない。そこにナショナリズムなどない。ナショナリズムという思想は、国民の数を増やし勢力圏を広げるという理念に基づいている。それを縮める国をナショナリストとは形容できない。
日本では、ナショナリストを自称する保守層の政治家や言論人は、多くの人々を「反日」とか「国賊」などと呼び同胞ではない者たちとして排除しようとする。むしろ「国民」の数を減らすのに懸命だ。
今のナショナリズムは、それぞれの国の社会に活力をもたらしているように思えない。むしろ社会を衰退に向かわせているように見える。標的は外国人だけではない。それぞれぞれの国の国民という共同体そのものを分断している。違った意見や考え方を持つ人を敵とか裏切り者とみなす。人々を統合するより分断するナショナリズム。
以上、「空想のナショナリズム」についてまとめると、
①同胞からの「助けてくれ」という叫びを無視するナショナリズム
②国民の共同体を統合するものとして機能せず、むしろ分断するだけのナショナリズム
③想像上の敵対国・中国との対立に向かい、米国から独立することに向かわないナショナリズム
④日本を負かした勝者の米国に仕えるナショナリズム
(官僚やエリートが国民の共同体や大衆のためではなく、米国が拠点のグローバル化した金融機関や大企業などのために働く)
⑤人口減少を解決するために移民を必要としているにもかかわらず、反移民を掲げるナショナリズム
⑥深刻な人口滅を放置し、人口を増やすこと、出生率を上げることを最優先に考えないナショナリズム
➆多くの人々を「反日」とか「国賊」などと呼び、同胞ではない者たちとして排除し、「国民」の数を減らすのに懸命なナショナリズム
⑧外国人だけでなく、違った意見や考え方を持つ人を敵とか裏切り者とみなし、人々を統合するより分断するナショナリズム
こうした「空想のナショナリズム」の諸条件にぴったり当てはまる高市政権が、いまシャカリキになって進めようとしているのが、憲法改正(9条削除、緊急事態条項制定など)である。
5月3日の憲法記念日を前に、国民的議論が巻き起ころうとしている。教学研究会では、これまで憲法改正問題を取り上げたことはなかったが、ここで一度、「憲法とは何か」「自民党の憲法草案の危うさ」などをしっかり学び、一年以内にも想定されている憲法改正発議の日に備えたい。
➆後半講義:続・『大御本尊とは何か』を考える――宗門の「戒壇の大御本尊」と創価学会の「広宣流布の大御本尊」は二つセットである!!
前回、歴史家・加藤陽子氏の本の中の「なぜベスト・&ブライティストが誤ったのか」を取り上げ、「過去の歴史について、真実がすべて明らかになっているわけではなく、また人々が思い浮かべる過去の歴史の範囲はきわめて限定されてしまっている。人びとは、自分がまず思いついた事例に囚われてしまうものなのだ」という歴史の法則があることを原田学会の教義改定の大失敗に当てはめた。すなわち、彼らは、教団としての独自性を闡明にするための障害として、まず思いついた「弘安2 年の御本尊」(戒壇の大御本尊)に囚われてしまって、あれを否定し排除しなければ、学会は自立できない、独自な教団になれないと思いこみ、戒壇の大御本尊を否定するあまり、「大御本尊」まで否定してしまうという取り返しのつかない失敗をしてしまった。
「大御本尊」は創価仏法の原点である戸田先生の「悟達」(戦中と戦後の二度)と密接に関係しているものであり、これを否定し、「大御本尊」から「大」の字を削除し、単なる「本尊」とすることは、創価仏法の破壊につながる大問題なのである。
どうしてこんなことになったかというと、加藤氏の言うように、執行部側も教学部側の過去の学会と宗門の歴史についてあまりにも疎く、視野が狭かったからだといえる。
具体的には、戸田先生の二度の悟達や論文「創価学会の歴史と確信」についての掘り下げが足らず、また、第一次宗門問題の時、日顕執行部と正信会との間で交わされた大御本尊をめぐる論争についてあまりにも無知であったことが挙げられよう。
特に、正信会(興風談所)の大黒喜道氏の「仏法か外道か」という論文などを学んでいたら、池田先生の「戒壇の大御本尊を否定しない」という方針と秋谷議長のこだわった「学会本部常住御本尊を大御本尊とする」という方針がなんら矛盾することなく両立できることに気付いたはずである。
宗門の「戒壇の大御本尊」と創価学会の「広宣流布の大御本尊」は二つセットであり、学会の大御本尊によって広宣流布が成就した暁に、宗門の大御本尊が正本堂のような“戒壇堂”に安置されるという関係性にあるのである。
ちなみに、慈折広宣流布大願成就の学会本部常住御本尊は、会長就任直後、戸田先生が誓願する段階から「大御本尊」と呼ばれ、下付された際の聖教新聞の見出しは、「広宣流布祈願大御本尊奉戴式」となっているのである。
今度の後半講義では、前回の復習からはじめ、大黒論文の前回の続きを読み進めていくなかで、
本果成道と本因成道の違いを学びたい。すなわち、通途の成道論(本果成道)では、戒壇の大御本尊の本果部分である目に見える「板本尊」がまずあって、それに「信心・唱題」することによって「成道」する(願いが叶う)のであるが、本因成道では、戒壇の大御本尊の本因部分である目に見えない内証本尊に対する「一念信本因」によって己心に刹那に内証本尊を感得でき、即座に成道する(すでに願いは叶っている)のである。
この本因成道と同じことを池田先生は、昭和52年の観心本尊抄講義で述べており、同じ年に連載された小説人華革命第10巻の一念の章等で、実践的に分かりやすく解説されているので、それを学びたい。
最後に、前回の講義を予告した文章が理解の助けになると思うので、少し増補して再掲しておきます。
⬇
私の持論は、戒壇の大御本尊すなわち大石寺の板本尊は、「大御本尊」のあり方の一つにすぎないということです。「大御本尊」とは、「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ」(月水御書)と仰せの「日蓮が魂」のことであり、「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて」(開目抄)と仰った「魂魄」のことです。
大聖人は、実際は御自身の頸が斬られていないにも関わらず、「日蓮といゐし者」(外用)は竜口で死んでしまった、佐渡に渡ったのはその「魂魄」(内証)であると自ら弟子檀那に宣言されたのです。
この大聖人の内証の「魂」「魂魄」こそ、「大御本尊」の正体です。教学的には、「久遠元初の自受用報身」といいます。報身(真身)とは、菩薩が長い修行と功徳の報いとして獲得した、有始無終の智慧の当体です。無始無終の真理の当体である法身および有始有終の慈悲の当体である応身(化身、肉身)とは区別されます。
戸田先生は質問会集で、「御本尊出現以前の信者たちは何を拝んでいたのですか」との質問に対して、「大聖人にお目通りして唱題していた」
すなわち大聖人を拝む対象すなわち本尊としていたと述べています。
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝)といいますので当然のことといえます。
しかし、「一身の当体」とはいうものの、煎じ詰めれば、応身(化身、肉身)ではなく報身(真身)が本尊です。御本尊出現以前の信者たちは、大聖人の報身と境智冥合することで成仏できました。大聖人滅後の我々も、大聖人が墨に染め流して書き顕わされた自受用報身如来の当体たる曼荼羅御本尊と境智冥合することによって成仏できます。
鎌倉時代、御在世の時は大聖人の肉身は信不信にかかわらず拝することが出来ました。 しかし滅後において、 不信の者は文字通り大聖人は滅せられたと思ってしまいます。
しかし真に大聖人を信ずる者は、たとえ肉身は滅せられても、その内證の常住不滅なることを拝することが出来ました。その常住不滅の大聖人の内證を、日興上人が信の一字の上に体得されたところに、富士門流の伝統の源があります。
近年の教義論争において、私の持論と全く同じく
「大御本尊の正体は大聖人の内証である」
「宗祖の内証真身たる久遠元初の自受用身が本仏」
と述べているのが、第一次宗門事件の際、擯斥された正信会(興風談所)の面々です。
彼らは、明治維新以降、西洋物質文明の影響で、宗門の教学も目に見えない内証己心を基調とした法門だったのが、次第に外相化して目に見える物質面を偏重する外相中心の明治教学になったと主張し、今日の諸問題の生ずる原因が現在の即物的に解釈する法門にあると指摘します。
言われてみると、宗門も学会も、金原明彦氏もみな、御本尊を即物的にしかみてませんね。
宗門は、正信会を「目に見えないものが宗旨だと言うのは理であり、観念論であり、 禅宗である」と非難し、「大聖人の肉体も楠の板本尊も三世常住である」とまで言い出しました。学会も、2014年に創価学会が会則を改定した際、学会が日蓮図顕の文字曼荼羅も書写の文字曼荼羅も全て等しく「本門の本尊」であると説明したことから、「『本門の本尊』を信仰の対象としている日蓮宗各派の信仰、ならびに日蓮正宗の信仰にも、応分の功徳がある」とか、「『本門の本尊』を信仰しても、全く功徳がないという教義を日蓮の御書から導き出すのはかなり困難ではないか」等と言い出しました。これも、目に見える本門の本尊に向かって耳に聞こえる唱題を実践するという行為は宗派に関係なく同じなので、功徳は同じであるという極めて即物的な考え方だと思います。
また、金原氏の『日蓮と本尊伝承――大石寺戒壇板本尊の真実』も徹頭徹尾、戒壇板本尊についての即物的な研究であって、戒壇板本尊の内証である「大御本尊」についての考察はありませんでした。
対して、池田先生は、1974年8月、高等部の夏季講習会で、10項目の指針を示され、その第一項目で
「仏法者として、本門戒壇の大御本尊を、一生涯忘れないでください」
と訴えられました。
当時、高3だった谷川なんかは、先生の指針とは真逆で、会員に大御本尊のことを忘れさせようとして「大」の字を取ったりしています。先生の指針をなかったことにしたいようです。
また、池田先生は学会が破門された後、大御本尊が既に謗法の地にあった1993年に、
「日蓮聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない」
と宣言されています。
さらに、2013年に教義改定や会憲制定の論議の中で、現在の長谷川理事長は、「池田先生は大御本と決別するなどとは言っていない」「会長は嘘をついている」等の発言が残っています。
その一方で、池田先生は、「曼荼羅それ自体は、物体という側面からいえば永遠不滅ではありえない」とも述べており、板曼荼羅に偏狭にこだわっていなかったことも事実である。
次の安斉伸・上智大学教授とのエピソードがそれを物語っています。
●19930503・本部幹部会
きょうは、寄せられた識者の声を紹介しておきたい。私たちの行動に対する「客観的な評価」を知っていただきたいからである。その一人、日本を代表する宗教社会学者の方(※安斉伸・上智大学教授)は、過日、山崎尚見副会⾧らとの懇談の折、次のように語られていたという。同副会⾧からの報告を、そのまま紹介させていただく。(中略)
私がこの方と、初めてお会いしたのは、もう二十数年前のことになる。その時の思い出も回想されたという。(中略)
「その折、私は『究極に求められるものは何でしょうか』と質問しました。おそらく”板曼荼羅の御本尊”と答えられると思っておりましたが、しかし、名誉会⾧は『久遠元初の法です』と答えられたのです」
「このことから、名誉会⾧が、永遠の根源を求めておられ、板曼荼羅に、偏狭にこだわっておられないことに、非常に感動し、創価学会の普遍性と、発展の因を見た思いでした。以来、学会への協力を決意し、今日にいたっております」
もとより御本尊が、私どもの「根本尊敬」の対象であられることは言うまでもない。そのうえで、 曼荼羅それ自体は、物体という側面からいえば永遠不滅ではありえない。当然、そこに計り知れない御仏意があられると拝されるが、曼荼羅としてあらわされた「法」は永遠である。いずれにしても、大聖人の仏法の真髄である「久遠元初の法」を根本としてこそ、永遠の妙法流布の道が開ける。この方は、そこに普遍的なものを感じとられたのであろう。
ここから考える時、池田先生は、戒壇の大御本尊の外用も内証も、よくわかっていらっしゃって、原田や⾧谷川らに「大御本尊には手をつけるなよ」とたしなめていたのではないかと思われます。
この板本尊の内証の問題については、正信会、特に興風談所の大黒喜道氏(「仏法か外道か」)や山上弘道氏(「色法と心法」)らが画期的な論考を発表しています。宗旨分と宗教分、流転門と還滅門、内証己心と外相等の立て分け等、特殊な用語を使うので、とっつきにくいかもしれませんが、言っていることは極めてまともです。
これらをもとに、「大御本尊とは何か」を考えていきたいと思います。
なお、資料は、こちらからダウンロードしてください。
第65回教学研究会.zip
https://30.gigafile.nu/0624-c812a721a6ddf25f99116a4647a3a3761
以上です。
【関連動画】